Tag Archives: 家康 脱糞

大失敗を大成功につなげた「しがみ像」

No Comments

大失敗を大成功につなげた「しがみ像」

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、徳川家康の肖像画の一つ。
徳川美術館所蔵。

像主が顔を顰め憔悴したような表情に描かれていることから、
『顰像』(しかみぞう)とも呼ばれている。
但し、本当に三方ヶ原の戦いの敗戦時に描かれたかどうかは定かではないようです。

 

「三方ヶ原の戦いでの敗戦直後の姿」という説明が本図の異様な容貌・姿態を理解しやすくし、

また

「家康が、自身の慢心を戒めるために自身の姿を描かせ、自戒のために座右に置いた」

という逸話が家康の人間性をよく表しているとされ、

「失敗を真摯に反省することが次の成功につながる」

という人生譚が現代の日本人の共感を呼んで歴史書や経済誌などでも取り上げられたことから、

現在の日本人の共感を呼び、広く周知されることになったとみられています。

え!?そんなことあったの~三方ヶ原の戦い~

No Comments

え!?そんなことあったの~三方ヶ原の戦い~

三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。

〇現在の温暖な浜松周辺では考えられないが、合戦当時雪が降っていた。

〇浜松市内の地名の「小豆餅」(中区の町名)および「銭取」(同区和合町の地名)は、敗走中の家康が途中で立ち寄った茶屋の老婆より小豆餅を買い求めて食べていたが、そのとき武田軍が迫ってきたので代金を払わず逃げ、後から老婆が追いかけて家康から餅代を徴収したという話がその由来として知られているが出典は明確でなく、それほど古くない時代に筋立てが成立した伝承であると考えられる。ただし命からがら逃走していた家康がいくら空腹でも悠長に茶屋に寄ったとは考えにくく、騎乗していた家康が徒歩の老婆に追いつかれたというのもおかしいため、信憑性は薄い。上記の地名も、「小豆餅」は合戦での死者を弔うためにこの地に小豆餅を供えたことに由来し、「銭取」は山賊が通行人から銭を取ったという話に由来するという説がある。また当時この地域には、茶屋どころか民家さえ存在していないと言われている。

〇敗走中の家康は途中で腹が減り、付近の農家に食べ物を求めた。家の者は粥を提供したため、後に家康はこの農民に「小粥(おがい)」という名字を授けて庄屋にした。また、家康が武田軍の追跡を逃れるため浜松八幡宮の洞窟に一時身を隠したが、家康の乗馬の白い尾が洞窟の外に出ていた。それに気づいた付近の農民が家康に教えたため、家康は尾を隠して上手く逃げおおせた。後に家康はこの農民に「白尾(しらお)」という名字を授けた。

〇犀ヶ崖の戦いの後、犀ヶ崖の底から転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり人々が恐ろしがった。そこで家康は僧侶の宗円を招き武田兵の霊を弔うための供養を行い、それ以後うめき声は聞こえなくなった。この供養が遠州大念仏の起源であるという。また、犀ヶ崖の戦いがあったとされる場所は、その伝承によって「布橋」と言う地名になった。浜松には「布橋の雪」という銘菓がある。

〇敗走中の家康が恐怖のあまり脱糞し、浜松城に入城した後に家臣から脱糞した旨を咎められて「これは味噌だ」と家臣に言い放ったという逸話がよく知られているが、この話は出典となる史料が判明していない。類似した話が記述されている『三河後風土記』では一言坂の戦い後の話とされている。

〇門松の習慣は平安時代からあったが、現在一般的となっている竹をななめに切って並べる「そぎ」にしたのは家康で、竹を武田家になぞらえて「(三方ヶ原では大敗したが)次は斬る」との意味合いを込めたとされる。

〇撤退戦に際して、家康は騎射で武田勢数名を撃ち倒したと『信長公記』にある。

〇敗北した家康が浜松城に帰還した際、夜陰に乗じての帰還で供回りも少なかったことから殿の帰城とは信じて貰えず、しばらく自城に入れなかった。

〇家康が浜松城に逃げ帰った後、酒井忠次が城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞し、武田方には伏兵のあることを疑わせて引き返させたとする「酒井の太鼓」の話は、河竹黙阿弥の『太鼓音知勇三略』(後に新歌舞伎十八番の一編となる)が1873年(明治6年)3月に村山座で初演されたのが人気を博したことで知られるようになったもので、『三河後風土記』が典拠とされることがあるが同書にそのような記述はなく、城門を開け放しにした話を脚色したと考えられる。

〇前哨戦では磐田・見付町の町衆が徳川軍に味方して武田軍に対抗し、そのおかげで家康からいくつかの特権を与えられたという(小和田哲男「戦国の群像」)。史料によると内容は3つである。

〇「町衆が狼煙をあげ、武田軍の動きを浜松城の家康に知らせた」

〇夜討ちをかけた武田勢が引き上げるところを、省光寺の裏山にひそんでいた町衆が待ち伏せして襲い、何人かを討ち取った」

〇「浅羽の内芝原に信玄が陣取った際、本多忠勝と内藤昌成が見付東坂の上まで物見に出たのだが、信玄隊が急に襲いかかってきたので、町衆は自ら町に火を掛け、本多隊の撤退を助けた」

〇敗戦後、家康はしばらく夢でうなされた。しばしばこの戦で死ぬ夢を見たという。

 

〇天正8年(1580年)に佐久間信盛が織田家から追放された際、信長は信盛が三方ヶ原においてほとんど戦わず、平手汎秀を見殺しにして退却した事を追放の理由の一つとして挙げている。

〇家康はこの戦で人生初の恐怖と大きなトラウマをもらったのは有名だが、同時に武田信玄及び武田軍の武将達に尊敬の念を抱くようになったという説もある。武田氏滅亡後、家康が武田の残党を抱えたのも、山県昌景や小幡信貞の赤備え井伊直政に継がせた(井伊の赤備え)のも敬意の表れだという。

〇このほかにも様々な俗説があり、家康が敗走中に部下のとった坊主首を信玄を討ち取ったと言いふらさせた、徳川勢の戦死者が一人も背中を見せて死んでいなかった、信玄が米倉丹後守に火牛の計を授けた、などがある。小説家の佐藤春夫は、『三河後風土記』などの内容のほか、講釈師が張扇でたたき出した創作などもあるだろうと述べている。

参考文献

『大日本史料』元亀3年12月22日条

小和田哲男『三方ヶ原の戦い』

高柳光寿『戦国戦記1 三方原の戦』春秋社、1958年

染谷光広「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」(『日本歴史』360号、1978年)

小楠和正『検証・三方ヶ原合戦』

丸島和洋『中世武士選書19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』戎光祥出版、2013年

丸島和洋「秋山虎繁」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年

丸島和洋「山県昌景」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年

原, 史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」 (pdf) 、『金鯱叢書』第43輯、公益財団法人徳川黎明会

ウイキペディア

ついに、ついに・・・開戦!~三方ヶ原の戦い~

No Comments

ついに、ついに・・・開戦!~三方ヶ原の戦い~

三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。

家康としては、武田軍が祝田の坂を下りはじめたとき、上から攻めかかれば勝つ可能性があると作戦をたて、「ころあいよし」と、浜松城を飛び出し、三方ヶ原に向かっていった。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。

戦いが始まったのは申の刻と言われているので、午後4時頃である。旧暦12月22日は新暦の2月4日なので、少しは日が長くなったとはいえ、戦いが始まって少しして薄暮、さらに時間が経過して暗くなってしまったと思われる。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。

武田軍の死傷者200人に対し、徳川織田連合軍は織田の援軍の将平手汎秀をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照・青木貞治や石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このうちの何人かは、家康の身代わりとなってそこに踏みとどまり、首を取られた者たちであった。自分の乗っていった馬を家康に与えて逃がし、自らはそこにとどまり、家康の名を唱え、首を取られた夏目次郎左衛門吉信、家康の持っていた采配を奪い、家康の身代わりになって討死した鈴木久三郎らの名が知られている。

このとき、家康は山県昌景の猛攻を受け、命からがら浜松城に逃げ込んだといわれ、しかも恐怖のあまり脱糞したと伝えられている。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。

 

 

参考文献

  • 『大日本史料』元亀3年12月22日条
  • 小和田哲男『三方ヶ原の戦い』
  • 高柳光寿『戦国戦記1 三方原の戦』春秋社、1958年
  • 染谷光広「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」(『日本歴史』360号、1978年)
  • 小楠和正『検証・三方ヶ原合戦』
  • 丸島和洋『中世武士選書19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』戎光祥出版、2013年
  • 丸島和洋「秋山虎繁」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 丸島和洋「山県昌景」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 原, 史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」 (pdf) 、『金鯱叢書』第43輯、公益財団法人徳川黎明会
  • 財団法人静岡県文化財団「日本を変えたしずおかの合戦」
  • ウイキペディア