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雲立楠

雲立楠

この伝説も1573年にあった三方原の戦いの徳川家康敗走伝説の一つです。

浜松八幡宮社殿の前に聳える『雲立楠』は樹齢1000年を超える楠の巨樹で、根回り約15m。

枝張り四方約25m、樹高約15m、幹の下部には大きな空洞があります。

武田軍の追手から逃れるため、この八幡様の境内に逃げ込み、

この楠の大きな空洞に隠れ、難を逃れたと。

この楠は家康が隠れた時、雲が立ち上がったので「雲立の楠」と呼ばれるようになったとか。

また、空洞の中で家康公が一心に八幡神を拝すると、楠より瑞雲が立ち昇り、

神霊が白馬に跨った老翁の姿となって浜松城へと公を導いたから、

「雲立の楠」と呼ばれるようになったとか。

この空洞に白馬と共に隠れると馬の白い尾だけが外に出ていたのを村人が気付き、

尾を隠した恩により、後にこの村人に白尾の姓が与えられたとか。

ついに、ついに・・・開戦!~三方ヶ原の戦い~

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ついに、ついに・・・開戦!~三方ヶ原の戦い~

三方ヶ原の戦いは、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。

家康としては、武田軍が祝田の坂を下りはじめたとき、上から攻めかかれば勝つ可能性があると作戦をたて、「ころあいよし」と、浜松城を飛び出し、三方ヶ原に向かっていった。そして同日夕刻に三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を敷き万全の構えで待ち構えていた。眼前にいるはずのない敵の大軍を見た家康は鶴翼の陣をとり両軍の戦闘が開始された。

戦いが始まったのは申の刻と言われているので、午後4時頃である。旧暦12月22日は新暦の2月4日なので、少しは日が長くなったとはいえ、戦いが始まって少しして薄暮、さらに時間が経過して暗くなってしまったと思われる。しかし、不利な形で戦端を開くことを余儀なくされた連合軍は武田軍に撃破され、日没までのわずか2時間ほどの会戦で連合軍は多数の武将が戦死して壊走する。

武田軍の死傷者200人に対し、徳川織田連合軍は織田の援軍の将平手汎秀をはじめ、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照・青木貞治や石川正俊・小笠原安次・小笠原安広(安次の子)・本多忠真・米津政信・大久保忠寄・鳥居忠広ら2000が死傷するという状況であった。このうちの何人かは、家康の身代わりとなってそこに踏みとどまり、首を取られた者たちであった。自分の乗っていった馬を家康に与えて逃がし、自らはそこにとどまり、家康の名を唱え、首を取られた夏目次郎左衛門吉信、家康の持っていた采配を奪い、家康の身代わりになって討死した鈴木久三郎らの名が知られている。

このとき、家康は山県昌景の猛攻を受け、命からがら浜松城に逃げ込んだといわれ、しかも恐怖のあまり脱糞したと伝えられている。しかし家康の使った空城の計に疑念をもった山県昌景らは、浜松城までは攻撃しなかった。このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったことや本多忠勝などの武将の防戦により、家康本人を討ち取ることはできなかった。

 

 

参考文献

  • 『大日本史料』元亀3年12月22日条
  • 小和田哲男『三方ヶ原の戦い』
  • 高柳光寿『戦国戦記1 三方原の戦』春秋社、1958年
  • 染谷光広「武田信玄の西上作戦小考―新史料の信長と信玄の文書―」(『日本歴史』360号、1978年)
  • 小楠和正『検証・三方ヶ原合戦』
  • 丸島和洋『中世武士選書19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』戎光祥出版、2013年
  • 丸島和洋「秋山虎繁」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 丸島和洋「山県昌景」柴辻俊六・平山優・黒田基樹・丸島和洋編『武田氏家臣団人名辞典』東京堂出版、2015年
  • 原, 史彦「徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎」 (pdf) 、『金鯱叢書』第43輯、公益財団法人徳川黎明会
  • 財団法人静岡県文化財団「日本を変えたしずおかの合戦」
  • ウイキペディア